抗体ができるメカニズムが解明されるまで

 北里とベーリングは、血清中には抗毒素が存在し、これが毒素を中和することを発見しました。この抗毒素が現在で言うところの抗体にあたります。一つの抗体は一つの抗原しか認識しません。しかし、世の中には無限の数ほどの様々な病原体がいるため、抗体も無限の数だけ存在する必要があります。しかし、一見すると、遺伝子の数は有限なのに、どんな異物に対する抗体でも存在するということは矛盾があるように思えます。そのため、この抗毒素(抗体)がどのようにできるのかについては長い論争がありました。

 

 抗体がどのように出来るのかについては、100年以上前から論争がありました。1897年に、ドイツのパウエル・エールリヒは側鎖説を唱え、白血球の表面にいろいろな異物に対する受容体(側鎖)が存在し、抗原と結合した側鎖のみが抗体をつくると主張しました。実は、このモデルは現在の免疫学の理解と近いものがあります。しかし、このような側鎖説に対し、カール・ランドシュタイナーは、人工的に合成された化合物に対しても抗体ができるという有名な実験を行いました。つまり、自然界にもともと存在しないものを認識するヒトの抗体ができるのは、ヒトの遺伝子の数が有限であることを考えるとあり得ない。側鎖説では説明できないのではないかと当時の人々は考えたのです。そこで、ポーリングやハロビッツは、抗原を鋳型として抗体ができると考える「鋳型説」や「指令説」と呼ばれる説を唱えました。この鋳型説では、抗原を鋳型として蛋白質が折りたたまれ抗体が作られると考えたのです。この仮説であれば、どんな抗原が来ても、それに合う抗体を作ることができることになります。つまり、自然界に存在しないような物質に対しても抗体ができることは、「側鎖説」では説明が難しく、「鋳型説」で説明できることから、一時的にこの鋳型説が優性となりました。

 しかし、このような鋳型説は現在の分子生物学の考え方とは全く相容れません。その後、ワトソンとクリックがDNAの二重螺旋構造を解明し、遺伝子はmRNAへと転写された後、タンパク質へと翻訳されるというセントラルドグマが明らかとなるについて、細胞の外に存在する抗原を鋳型として蛋白質が折りたたまれることはあり得ないことが誰の目にも明らかとなってきたことから、この「鋳型説」にも疑問が持たれるようになりました。抗体がどのようにできるのかが解明されるためには、免疫学の発展を待たなくてはなりませんでした。

 


 

 免疫学では「クローン選択」という概念が非常に重要です。フランク・マクファーレン・バーネットがこの「クローン選択説」を1959年に提唱したましたが、当時は、B細胞やT細胞の違いも知られていませんでした。しかし、リンパ球が無限に存在する抗原を認識できることは知られていました。「クローン選択説」は、リンパ球は抗原に対する一つの受容体を細胞膜上に発現し、無数の数のリンパ球はそれぞれ異なる受容体を発現している。その中で抗原と結合した受容体を発現しているリンパ球だけが選択的にクローン増殖するという考えです。これは、エールリヒの「側鎖説」と非常によく似た考えです。その違いは、「側鎖説」では一つのリンパ球は様々な種類の受容体を発現するのに対し、「クローン選択説」では一つのリンパ球が発現するのは一種類の受容体だけという点です。

 バーネットは、オーストラリアのウイルス学者で、1899年にビクトリア州のトララルゴンで生まれました。彼はメルボルン大学で学位を取得し、オーストラリアの医療政策の決定にも重要な役割を果たしています。バーネットは1960年にピーター・メダワーと同時にノーベル生理医学賞を受賞していますが、実は、この「クローン選択説」に対する貢献ではなく、「免疫寛容の獲得」の研究への功績で受賞しています。

 バーネットの「クローン選択説」が提唱された頃に、実は、抗体の産生メカニズムを解明する非常に大きな発見が偶然ありました。1950年代にブルース・グリックは鳥類に特有の器官であるファブリキウス嚢の機能を調べようとしていました。ファブリキウス嚢は、腸管の総排泄孔の近くに位置する腸管から少しくぼんだ部位にある器官です。グリックは、このファブリキウス嚢の機能を調べようとニワトリのファブリキウス嚢を切除し、切除されたニワトリがその後どうなるかを観察していました。しかし、何の変化もみられませんでした。ただ、そのまま実験に使用したニワトリを殺してしまうのももったいないので、このファブリキウス嚢を切除したニワトリを、大学の抗体産生実験のために提供しました。ところが、このファブリキウス嚢を切除したニワトリは全く抗体をつくらず学生実習はものの見事に失敗となります。これを聞いたグリックは、ファブリキウス嚢を切除したニワトリを詳細に調べたところ、このファブリキウス嚢が抗体の産生に必要であることを発見したのです。

 

 このグリックの発見は、その後、マックス・クーパーらによって追試され、ファブリキウス嚢が鳥類のB細胞の成熟に必要であることが明らかとなり、1970年代になり、ヒトでは、成人では骨髄で、胎児では肝臓でB細胞が作られることが明らかとなりました。また、同時に、ヒトの免疫には抗体をつくるB細胞の他にT細胞が存在することも明らかとなりました。しかしながら、以前として北里とベーリングが発見した抗毒素の正体となる抗体がどのように多様性を獲得するのかは解明されませんでした。

 

 どのような抗原でも、それに対する抗体が存在する仕組みを解明したのは、利根川進であるというように教えられることが多くあります。しかし、この仕組みの解明に貢献したのは利根川進だけではありません。

 長らく解明されてこなかった抗体の多様性の仕組みを解明する最初のきっかけを作ったのがドライヤーとベネットの二人だと云われています。ドライヤーとベネットは抗体の可変部位をコードする遺伝子の領域と、定常部位をコードする遺伝子の領域が生まれた後に遺伝的組換えにより結合すると提唱したのです。

 当時は一遺伝子一酵素説が広く受け入れられており、一つの遺伝子は一つのタンパク質をコードするという考えが主流でした。しかし、ドライヤーとベネットは、一つの抗体(タンパク質)は二つの遺伝子によってコードされると提唱したのです。当時は遺伝子のイントロンという概念がなかったために、この考え方は非常に奇異なものでした。しかし、この一つの抗体が二つの遺伝子によってコードされるという考え方は、抗体が多様性を獲得する仕組みを解明する上で非常に役立ちました。このドライヤー・ベネット仮説を実験的に証明したのが利根川進です。

 

 利根川は、京都大学の化学科を卒業したあと渡米し、カリフォルニア大学サンディエゴ校で博士課程を修了し、スイスのバーゼル免疫学研究所に移り研究を続けていました。当時、この抗体ができるメカニズムについては、生殖細胞に既に存在する遺伝子が全ての抗体分子をコードしているという考え方が主流で、体細胞期に遺伝子が変化するというドライヤー・ベネット仮説はあまり支持されていませんでした。しかし、利根川進は日本の京都大学で学んだ化学の基本にそって実験を進め、ドライヤー・ベネット仮説が正しく、抗体の多様性は、抗体をコードする遺伝子が遺伝的組換えを行うことで生まれることをついに証明し、1976年のコールドスプリングハーバーで発表しました。

 通常、学会などの発表では発表時間が決められているため、決められた発表時間を大きく越えると途中で発表を止められることもあります。利根川は、この発表で、膨大な量の実験結果を伝えるために、与えられた発表時間を大きく超過していました。そのため、司会者から発表を途中で中止するように求められました。しかし、ノーベル賞受賞者のジェームズ・ワトソンが「これは重要な発表なので、途中でやめさせる必要はない」と司会者を遮り、発表が続けられることになりました。有名なジェームズ・ワトソンが慣例を破ってまで発表を続けるようにと発言したことから、聴衆もその重要性に気づき始め、一言も聞き逃すまいと次第に会場は静まり、聴衆は発表の内容に集中していきました。そして、利根川進が、遺伝子の組換えが生じていることを証明し発表を終えると、会場は盛大な拍手に包まれたそうです。この発表が、抗体ができる仕組みが解明された歴史的瞬間となりました。

 

 この研究は、当時、遺伝子は一つの酵素をコードするという既成概念を大きく変えることにつながりました。幾つかの遺伝子断片の組み合わせが、遺伝的組換えにより組み合わさることで、一つの抗体蛋白質が生まれ、さらにその多様性も生まれることを証明したのです。北里とベーリングによる抗毒素の発見から100年弱の時を経てようやくメカニズムが明らかとなったのです。利根川進は、この功績から、1987年にノーベル賞を受賞しています。

 

1987年、抗体ができるメカニズムを解明し、利根川進はノーベル生理・医学賞を受賞しました。

野口英世や北里柴三郎もとることができなかったノーベル賞を日本人として始めて受賞したのです。