科学史から消された女性たち(免疫学編)

 女性であることを理由とした差別は古くからあります。私の大学院時代の先生は女性でしたが、その先生からは戦後すぐの時代は女性は大学に進学できなかったことや、父親に無理にたのみ大学に通わせてもらえることになったら、それはお嫁さん育成学校だったのでがっかりしたなどの苦労話をよく聞かされました。

 科学や医学の世界で女性が活躍したことは古くから少しだけ記録が残っています。例えば、4700年ほど前の古代エジプトのメリト・プタハと呼ばれる女性は医学の長として紹介されています。このメリト・プタハについては「実在したかどうかわからない」と指摘する声もありますが、当時のエジプトには女性のための教育をする学校があったと云われているため実在した可能性も大いにあります。そして、医学の長として書かれていることから当時のファラオにも謁見しその治療にも携わったと思われます。

 11世紀にはトロトゥーラ呼ばれる女性がサレルノ医学校の女性の医師だったと記録されています。彼女は、妊娠、出産、産褥、新生児の介護、食餌などについて記載した「女性の病気」を書き、これは、15世紀末まで教科書として広く用いられたそうです。このトロトゥーラも実際に存在したかどうかが議論になっていますが、もし男性であれば名前が出るたびに実在したかどうかが議論されることもなかったと思われます。このトロトゥーラについては、13世紀の詩人のリュトブーフによって紹介されていたり、14世紀のイギリスの詩人のジェフェリー・チョーサーのカンタベリー物語にもTrot婦人として描かれていたりするなどいくつかの書物で書かれているため実在したのは間違いないと思われます。トロトゥーラはサレルノの貴族であったデ・ルッジェーロ家に生まれたと云われていますが、このデ・ルッジェーロ家はサレルノ大聖堂の建設のために多額の寄付をしたと云われる貴族です。その功績もあってか、トロトゥーラは女性でありながら高等教育を受けることができ医師になれたともいわれています。

  そして、近代になり記録が残っている中でも有名な女性はメアリー・ウォートリー・モンタギューです。免疫学の父として紹介されるのはエドワード・ジェンナーですが、これは世界で初めてワクチンを開発したのがジェンナーと云われているためです。しかし、この話はどうも事実ではないようです。ジェンナーが生きていた時代には多くの人がワクチンというものを既に知っていたことが最近の研究からわかってきました。そして、当時のヨーロッパに初めてワクチンを伝えたのは実は女性でした。その人の名前はメアリー・W・モンタギューとして知られています。海外では既に数多く紹介されていますが、日本ではあまり紹介されていないようですので、ここでメアリー・W・モンタギューを紹介したいと思います。


 

 1698年の5月15日にメアリーはイギリスの政治家エブリン・ピアポントの長女として誕生しました。イギリスの政治家の家に生まれた彼女は裕福な暮らしだったと云われています。メアリーには弟がいましたが、成長するにつれ弟たちが教育を受けるようになる傍ら、メアリーは女性であることを理由に教育を受けさせてもらえませんでした。そして、「私も教育を受けたい」と強く想い父親に頼んだところ、当時の上流階級の教養ある婦人たちによるサークルに入ることができました。メアリーはそこで文字を習い、詩を書くようになりました。現在もメアリーが書いた詩がいくつも残っています。

 

 メアリーはやがて大人になり、外交官であるエドワード・モンタギューと結婚しました。エドワードはトルコ駐在大使に任命されるとメアリーと一緒にトルコに向かいました。そして、この時にメアリーは天然痘に罹ってしまったのです。その後一命をとりとめましたが、顔には痘痕(あばた)が残ってしまいました。メアリーは非常に美しい顔立ちだったと云われていますが、その顔に醜い痘痕が残ってしまったことはメアリーにとって大きなショックでした。また、メアリーの弟の一人が天然痘で亡くなったともいわれています。

 悲しに沈むメアリーは、当時のトルコに天然痘を予防する方法があることを知りました。

「私と同じ悲しみを子供達にさせたくない」

そう考えたメアリーは、当時のトルコで使われていた天然痘の予防ワクチンをイギリスに持ち帰ったのです。これは1720年頃の出来事だと云われています。ジェンナーが生まれたのは1749年ですので、ジェンナーが生まれる30年ほど前になります。メアリーがトルコからイギリスへと持ち帰った天然痘のワクチンは、その60年ほど前に、ギリシアから来た一人の女性によってトルコに伝えたられたとの記録がありますが、この女性の名前は残っていません。

実は、メアリー以外にも天然痘のワクチンをヨーロッパに持ち込んだ人はいたようです。ワクチンが話題になった当時のイギリスでは、イギリスの南部に住む老人が

「私が子供の頃に、母親からワクチンを打ってもらった」

と証言したとも伝えられています。

その老人は、その母親も祖母からワクチンを打ってもらったそうです。天然痘のワクチンが最初に開発されたのは2000年以上前のインドと云われていますので、歴史に名前を残さなかった女性たちによってインドから世界中に脈々と伝えられていたのかもしれません。

メアリーが他の人と違ったのは、イギリスにワクチンを持ち帰りそれを普及させようとした点です。しかし、メアリーが女性であることから、多くの医者が猛反対しました。

 ところがメアリーの天然痘のワクチンを普及させたいという願いに、イギリスのジョージ2世の王妃として知られるキョロライン・オブ・アーンズバックがメアリーに手を差し伸べました。キャロライン自身も1707年に天然痘に罹り命を落としそうになったことがあったのです。そして、次第にメアリーの活動に多くの人が賛同するようになり、メアリーが伝えた天然痘のワクチン接種方が普及していきました。実際に、ジェンナーは種痘法を開発する以前は人痘法で予防接種をしていたといわれています。つまり、イギリスではそれほど既に予防接種という考えは広がっていたようです。

 

 メアリーがトルコから持ち帰りイギリスで普及させた天然痘のワクチンは、天然痘患者の膿を用いた人痘と呼ばれるものとされています。一方のジェンナーの開発したワクチンは牛の天然痘に感染した人の膿を用いた種痘と呼ばれるものとされています。そのため、一般的には、メアリーが伝えた人痘は、ジェンナーが開発した種痘と比べると危険だったために普及しなかったと説明されています。ところが、本当にそうであったかはよくわかっていません。メアリーはトルコに滞在していたときに5歳の息子に人痘を受けさせました。そしてイギリスに戻ってからは自分の娘に人痘を受けさせています。そして、メアリーの運動に心を打たれたキャロラインは娘たちに人痘を受けさせるために、念のため7人の囚人に人痘を受けさせましたがいずれも無事でした。それを確認してからキャロラインは二人の王女に人痘をうけさせたのです。つまり当時からメアリーがイギリスに伝え普及させた人痘の方法は安全なものだったと思われます。安全でなければ王女に人痘を受けさせることはあり得ないでしょう。この当時に、メアリー以外にも人痘をイギリスに伝えた人たちが何人かいて、その人たちが人痘の方法を正しく理解せずに、方法をかってに変えてしまったために危険な方法になったともいわれています。メアリーが天然痘ワクチンの普及に努め「天然痘は予防できる」という考えを広め、当時の王女二人が予防接種を受けるまで信頼を得たことが、ジェンナーの種痘の開発に繋がったと思われます。

 

そして、20世紀に使用されていた天然痘のワクチンは、ワクシニアウイルスと呼ばれる弱毒のウイルス株を用いた生ワクチンですが、このワクシニアウイルス(LC16m8株)は、ジェンナーが開発した種痘に用いられた牛痘のウイルスではないことが科学的に証明されています。ジェンナーが種痘を開発し、それにより人類は天然痘を撲滅できたと信じられていますが、本当の歴史的な事実とは異なるようです。このことについて、ジェンナーは当初から牛の天然痘ではなく、馬の天然痘ウイルスを使っていたと説明されることもありますが、何れにせよ、私たちが聞かされていたジェンナーがワクチンを初めて開発したという話は、ワクチン開発を象徴する一つの物語でしかないようです。そして、メアリー・モンタギューがトルコからイギリスに持ち帰った天然痘のワクチンが、ワクチンが広く使われるようになるきっかけであったことは間違いないように思われます。そのことから、海外では最近になってメアリー・モンタギューの功績がみなおされ、その偉大な功績は女性であることを理由に科学史から消されてしまったと紹介されるようになっています。

 

2021年8月4日改訂

2023年1月14日改訂

メアリー・W・モンタギュー

(画)Charles Jervas


参考文献

Julius M Cruse and Robert E Lewis. Historical Atlas of Immunology (Taylor and Francis)

Isobel Grundy. Montagu, Lady Mary Wortley 23: 2004 doi.org/10.1093/ref:odnb/19029

Lady Mary Wortley Montagu: Selected Letters. 1997