ポリオ生ワクチンの光と影

私が子供の頃の小学校の担任の先生は足に麻痺がありポリオが原因だと教わりました。以前は、ポリオは大変怖い病気として流行を繰り返し恐れられていたそうです。1961年は日本でポリオワクチンに関する騒動があった年として知られています。その前年には北海道を中心として日本全体で5000人以上の子供がポリオをという病気に感染するなど、ポリオの大流行が発生し国産ポリオワクチンの生産が試みられました。

ポリオは、最近の日本では聞くことは珍しくなりましたが、ポリオウイルスに感染することが原因の病で、発症すると小児麻痺の後遺症が長く続いたり、あるいは、ポリオに罹ったことで死んでしまったりすることもありました。そのため、日本は国産のポリオワクチンの製造を始めることとなりました。1961年の春には国産のポリオワクチンが完成し普及する予定でしたが、残念なことに3月になってから期待した国産ポリオワクチンが十分な予防効果がないことが判明したのです。いくつもの日本のワクチンメーカーがポリオワクチンを作りましたが、何れも基準を満たさず検定で不合格だったのです。そのため当時の日本政府は海外から輸入したポリオワクチンだけで対応することにしました。

 

 1961年の3月末には、アメリカ、カナダ、ソ連から緊急輸入したポリオワクチンが届き、3才未満の子供には5月までに接種を受けることができるようになりました。そして、3才以上の子供も5月以降には希望すれば何時でもワクチンを接種できる見通しがついたのです。しかし、順調に思えた対応も5月に始まった九州地方を中心とするポリオの流行から大きな騒動となりました。その経緯をみると、まず、政府はポリオの流行を封じ込めるために、ポリオワクチンを優先的に九州地区に使用しました。ところが、5月末にはポリオの封じ込めに失敗したことが判明し、九州から離れた三重県で小児麻痺が流行し始めたのです。政府は直ちに陸上自衛隊の防疫二個中隊を投入し、流行地域での徹底した消毒を行い、懸命に流行を封じ込めようとしました。

 翌月の6月初旬には厚生省が流行のペースが落ちたと発表しましたが、同じ月に東京にもポリオが飛び火していることが判明しました。そして、6月13日には東京の足立区大谷町をポリオの流行地区として初指定しました。大谷町ではポリオを封じ込めるために、小さな子供をもつ母親も加わり一斉に消毒が行われたのです。しかし、その努力は実らず、その日の夜には埼玉県でもポリオ患者が新たに現れました。そして6月15日には足立区で新たに二人のポリオ患者が確認されました。封じ込めが上手くいっていないことに多くの人が戦慄したそうです。翌日には、品川区で一名のポリオ患者が新たに現れ、その次の日にも4人のポリオ患者が確認されると、1961年の6月19日の時点では東京都内で76人の患者が確認されたのです。

 

「日本の首都の東京で、ポリオが大流行する」

 多くの人がそう思い、まさに危機的な状況でした。1961年の619日には小児マヒからこどもを守る東京都協議会や東京母親連絡会議などの代表者が厚生省に押しかけ、ソ連製の生ワクチンを直ぐ使えるようにと陳情しました。このソ連製の生ワクチンは日本では承認されていないものでしたが、高い予防効果があることが知られていました。6月21日には、このソ連製の生ワクチンを求める声はさらに高まり、その日の正午には、横浜母親連絡会の150人がバス二台で厚生省に駆けつけ、今すぐソ連製の生ワクチンの使用を認めるように陳情したのです。もはや、子供を持つ親はパニック状態です。ワクチンの陳情の声は日に日に大きくなりました。ソ連製のワクチンを追加で緊急輸入するように政府にせまったのです。当時、ソ連製のポリオの生ワクチンと呼ばれるワクチンが、非常に予防効果が高いことが知られていました。生ワクチンというのは生きたウイルスのことです。しかし毒性が弱いために感染しても軽症で済みます。つまりわざと毒性の弱いウイルスに感染することで毒性の強いウイルスの感染から身を守るのです。しかし、日本では安全性確認の試験などをしていなかったため、ポリオ生ワクチンの使用が承認されていませんでした。そのため、例え日本に輸入したとしても日本の法律の下では使えません。それでもソ連で安全性が確認されているものが日本で使えないはずがないとして、多くの親が我が子を守るためにソ連製のポリオ生ワクチンの緊急輸入を求めたのです。そして、幼い子をもつ母親たちの想いに動かされ6月26日に政府はついに大きな決断しました。違法なのは承知の上で幼い子供たちの命をすくために、超法規的措置として当時の日本での使用が認められていなかったソ連製生ワクチン1000万人分を緊急輸入することを決定したのです。当時の厚生相が、「全ての責任は私がとる」と発言して緊急輸入を決定したと云われています。

 7月1日には最初の10万人分が届きましたが、7月2日にはすでに1299人がポリオ患者として確認されていました。7月12日にはついに1000万人分のソ連製のポリオワクチンが届きました。届いたワクチンは直ぐに梱包されて東京や各都道府県に送られ、一斉に日本中の子供たちがポリオ生ワクチンを受けました。ワクチンが送られてきた自治体では、梱包されていたワクチンの個数が帳簿上より少ないとしてワクチンを受けることができない子供がでてしまうと悲痛な叫びがあり追加で急遽ワクチンを送ってもらうなどの混乱もありましたが、7月中にはほぼ全ての子供へ生ワクチンが届き、日本はポリオの封じ込めに成功したのです。もし、ポリオの生ワクチンが日本の子供たちに届いていなければもっと多くの犠牲を出したことは誰の目にも明らかでした。

 

 このようにポリオの生ワクチンは多くの子供たちを救いましたが、この生ワクチンにも副反応がありました。実は、その年の8月には既にポリオ生ワクチンを飲んだことで二人が小児マヒとなり、そのうち一名が死亡したことが報告されています。しかし、ポリオの大流行の封じ込めのためには一部の犠牲は仕方がないと思われました。その後、日本製のポリオワクチンが完成し普及することで、日本では殆どポリオの患者が現れることはなくなりました。しかし、30年ほどの月日が流れた頃に日本でも再びポリオが話題として上がるようになりました。1994年の4月に日本でポリオの感染者が現れたのです。13才の男の子が台湾旅行から帰国後にポリオを発症したのです。そのポリオウイルスの遺伝子を調べると、ベトナムで流行しているポリオウイルスとよく似ていることがわかりましたので、おそらく海外旅行中に感染したのではないかと考えられました。この男の子はワクチンを接種していたはずですので、本来であればポリオに感染することはないと思われますが、何らかの理由により感染してしまったと考えられたのです。しかし、その2年後には、長崎県の36才の男性のポリオ患者が現れました。その原因を調べたところ、実は、ワクチンを接種したことが原因でポリオに感染したことが分かったのです。この男性の子供が受けたポリオ予防接種に使われた生ワクチンが、体内で変異し毒性を強め、これが36才の男性に感染したことが分かったのです。この36才の男性はたまたまポリオの接種歴がなく、ポリオに対する免疫が出ていなかった特殊なケースと考えられました。

 

 その後も、数は多くありませんでしたが、同じようなことが定期的に生じたため、2002年に入り、政府は、ポリオワクチンについて、従来使用していた生ワクチンから、不活化ワクチンに切り替える方針を固めました。1970年以降では、少なくとも36人のポリオ感染者が発生し、そのうち16人は二次感染者と分かっています。1980年以降には日本ではポリオの自然発症はなく、2001年までに18人が生ワクチンの使用が原因と考えられるポリオウイルス感染の被害者がいます。海外では既に生ワクチンから不活化ワクチンへの切り替えが進んでいました。そして、2012年に日本でも生ワクチンから不活化ワクチンへと切り替えられ、1960年代に多くの子供たちの命を救った生ワクチンは歴史的な使命を終えたのです。