天然痘ワクチン開発の真相

ワクチンはエクイン?


 

 世界で初めてワクチンを開発したのは18世紀のイギリスのお医者さんのエドワード・ジェンナーです。ジェンナーは「天然痘」と呼ばれる数千年前から知られていた非常に高い致死率をもつ病気に対してワクチンを開発しました。ジェンナーは、人が「牛痘」と呼ばれる牛の病気に感染することで天然痘を予防できることを発見して、この牛痘を使ってワクチンを開発したのです。そして、この功績によって20世紀にアフリカのソマリアでの患者を最後にして、天然痘は世界から撲滅されました。数千年にわたって多くの人の命を奪った天然痘を克服できたのです。

 

 このジェンナーの話は大学で使われる免疫学の多くの教科書でも紹介されています。また、インターネットでもエドワード・ジェンナーで検索すると、この話が紹介されています。ところが、2017年にニューイングランドジャーナル(New England Journal of Medicine)という医学誌に、一つの論文が発表されたことで、このジェンナーの話が本当だったのかどうかについて議論が沸き起こりました。なぜなら、この論文では、今から100年以上前の1902年にアメリカにあったマルフォードという製薬会社が製造した「天然痘ワクチン」を調べたところ、20世紀に使われていた天然痘ワクチンも、この100年前に使われていた天然痘ワクチンのいずれもが、牛痘ではないことがわかったのです。ちょっと信じられない話ですが、これは科学的な事実です。

 

 ジェンナーは1798年に天然痘ワクチンに関する論文を発表しています。その論文のタイトルは少し長いのですが、普段はタイトルを短くして「Inquiry(調査)」と呼ばれています。そのInquireyと呼ばれる論文の中で、ジェンナーは、サラ・ネルメスという牛の乳搾りを仕事としていた女性が、手に牛から牛痘の病気が感染し、次に、その手にできた膿疱の膿を、ジェームズ・フィップス(注:論文中では名前は出ていません)という男の子に接種すると、天然痘を予防できたと説明しました。そのため、この予防接種法は、牛を意味するVaccaという言葉を用いてVaccine(ワクチン)という名称が付けられたのです。ところが、先ほどの2017年に発表された論文では、天然痘のワクチンは、牛痘ではなく、馬の病気の「馬痘」という病気に由来していると結論づけられたのです。ヒトはほとんど馬痘に感染することはないので、ジェンナーの話が本当だったのかどうかについての大きな問題となったのです。

少し難しくなりますが、天然痘ワクチンの仕組みについて説明したいと思います。天然痘はVariola virus(天然痘ウイルス)が原因となる病気です。一方で、牛痘は、Cowpox virus(牛痘ウイルス)が原因となる病気です。そして、この天然痘ウイルスと牛痘ウイルスが似たウイルスなので、交叉免疫と呼ばれる現象によって、牛痘に感染することで天然痘が予防できます。一方で、馬痘はHorsepox virus(馬痘ウイルス)が原因となる病気で、この馬痘ウイルスも天然痘ウイルスと似ているので交叉免疫を誘導して天然痘を予防できます。20世紀に世界で使われた天然痘のワクチンはVaccinia virus(ワクシニアウイルス)と呼ばれています。この天然痘ワクチンのに入っているワクシニアウイルスは、ジェンナーの説明から、牛痘ウイルスと考えられていました。

 

参考:

天然痘ウイルス:Variola virus(致死率が高い)

ワクシニアウイルス(天然痘ワクチンに入っているウイルス:種痘):Vaccinia virus(副反応(症状)が比較的弱い)

牛痘ウイルス:Cowpox virus(軽症:水疱ができる))

馬痘ウイルス:Horsepox virus(軽症:水疱ができる)

4つのウイルスはお互いに交叉免疫を誘導すると考えられている。

 

実は20世紀に入り世界で広く使われている天然痘ワクチンのワクシニアウイルスが、「どうも牛痘ウイルスではないようだ」ということが以前から指摘されていました。その理由として、ワクシニアウイルスを細胞や動物に感染させた時の様子が、牛痘ウイルスを感染させた時の様子と明らかに異なっていたからです。このことについては、「ワクシニアウイルスはジェンナーが開発してから長い月日が経っていたので牛痘ウイルスから性質が少し変わったのではないか」と考えられていました。ジェンナーが亡くなったのは1823126日ですが、ワクチンによって天然痘が撲滅されたのは1977年です。この年のソマリアでの患者が最後の患者とされています。WHOが天然痘の世界根絶宣言をしたのは1980年の5月になります。つまり、ジェンナーが亡くなってから150年も後のことです。そのため天然痘ワクチンのウイルスは少しずつ性質を変えていったとしても不思議ではありません。DNAの塩基配列を決定する技術が進み、ウイルスのゲノム配列も解読されるようになりましたが、2005年にJournal of General Virologyという雑誌に掲載された論文では既に、天然痘のワクチンとして使われているワクシニアウイルスの塩基配列は、馬痘ウイルスと最も似ていると紹介されていました。この段階では、ジェンナーが開発した天然痘のワクチンが馬へと感染し、これが馬から馬へと伝わって馬痘となった可能性もありました。実際に、この馬痘ウイルスは自然界にはほとんど存在しないことも、その説を裏付ける状況証拠として考えられていました。

 

このような状況の中で、先ほど紹介した論文が2017年に発表されました。そして、ワクシニアウイルスは、単に馬痘ウイルスと塩基配列が最も似ていると指摘されただけでなく、ワクシニアウイルスは、元々は、牛痘ウイルスではなく、馬痘ウイルスだったことが証明されたのです。少し専門的な話になりますが、馬痘ウイルスと比較して、ワクシニアウイルスのゲノムに欠損領域があることが、その証拠とされました。

 

この2017年の論文が出たことで新しい解釈がされています。それは、ジェンナーは最初から牛痘ウイルスではなく、馬痘ウイルスを使っていたとする説です。その理由として、1798年に発表されたジェンナーの論文では、牛痘は馬の病気に由来すると書かれていることです。つまり、ジェンナーはもともと、天然痘のワクチンとなった牛痘のウイルスは馬の病気に由来すると考えていたのです。

 

しかし、この説には一つの疑問が呈されています。それは、ジェンナーの1798年の論文では、この牛痘のもとになった馬の病気の名前を馬痘ではなく「グリース」と書いていることについてです。ジェンナーによると、この馬のグリースという病気は、馬の踵が腫れて炎症が生じるという病気です。実は、現在でも馬のグリースという病気は知られていて、ジェンナーが書いているように、馬の踵が腫れて炎症がみられます。ジェンナーは、牛が牛痘になる前には、必ず先にグリースという病気が馬で流行することを根拠としていました。当時はわかっていませんでしたが、このグリースという病気は、馬痘ウイルスが原因ではなく細菌感染が原因となる病気です。つまり、ジェンナーが論文で記載したグリースという病気は馬痘のウイルスではなく別の細菌が原因だったと思われます。また、1798年のジェンナーの論文では実際に馬のグリースという病気の患部からとった膿を人に接種したところ、牛痘の膿を接種した場合と様子が異なると記録しています。そのことから、ジェンナーが最初から馬痘ウイルスを天然痘のワクチンとして使っていたと考えるのは少し不自然です。この点については、19世紀の論文で既に、ジェンナーの論文に書かれたグリースという病気は馬痘ではないと指摘されています。20世紀に使われていた天然痘ワクチンの正体となる馬痘ウイルスは自然界では非常に稀なウイルスで、モンゴルで一度だけ単離された以外には、単離されていないともいわれています。それ以外の地域で馬痘とされる病気から採取したウイルスは馬痘ウイルスではなく、似た症状を示す別のウイルスでした。そのことから、ジェンナーが馬痘と呼ばれる病気からとった膿を使って実験したとしても失敗に終わったことは容易に想像できます。そのことから、ジェンナーが最初から馬痘を使っていたとするのは無理があるのではないかと指摘されているのです。

 

 

もし、ジェンナーが本当に牛痘ウイルスを天然痘のワクチンとして用いていたとしたら、20世紀に入って天然痘を撲滅するために使われたワクチンを作ったのは、ジェンナー以外の人物ということになります。それは誰でしょうか?

 

このことについて、もう一つの説があります。それは、ジェンナーは最初に牛痘ウイルスを使っていたけれど、後に、馬痘ウイルスの方が予防効果は高いことに気づき、馬痘ウイルスをワクチンとして使うようになったけれども、そのことについては公にされなかったとする説です。その根拠として、先ほど述べたように、1798年にジェンナーが牛痘はグリースに由来すると論文に記載したことで、馬痘を使った予防接種法が19世紀のイギリスで頻繁に検討されていたとの記述があることです。1868年に出版されたワクチンハンドブック(Handbook of Vaccination)という本の中では、ワクチンと並んでエクインという言葉が紹介されています。これは、馬を意味するラテン語のEquine(エクイン)という言葉ですが、本の中ではエクイネーション(Equination)と呼ばれる方法が紹介されています。それによると、馬痘による感染で馬にできた水疱の液(リンパ液)を牛に接種することで、牛痘と同じ症状を発症させることができると書かれているのです。つまり、グリースという病気ではなく馬痘から牛痘が生じると書かれているのです。最初のエクイネーションとして、1800年にタナーという人物が成功し、この馬の水疱からとった液をジェンナーに送ったとも書かれています。ところが、1800年の段階では、このエクイネーションによって牛に水疱ができるものの、人や牛や馬で天然痘、牛痘、馬痘を予防できることの証拠はなかったようです。一方で、馬痘により馬にできた水疱からとったリンパ液を人に接種した例として、既に1802年にインドに送られた天然痘ワクチンが、ジェンナーが作成したワクチンではなく、馬痘から作ったワクチンであると確かに書かれています。ただし、先ほどのワクチンハンドブックという本の中では、エクイネーションによって馬が馬痘を予防できることは、1860年と1863年の馬痘流行の時になってようやく証明されたと書かれています。また、この本の中でもワクチンは牛痘から作ったと書かれているのです。一方で、19世紀に世界中に配布され、その後天然痘ワクチンのスタンダートとなった天然痘ワクチンは、1866年に開発されたボージョンシー・リンパ液だとする論文があります。この論文では、フランスのボージョンシーという場所とサン・マンデという町で発見された牛痘に感染した牛からとったリンパ液を混ぜてボージョンシー・リンパ液が作られたとされています。この論文でもワクチンは牛痘とされています。このような状況から、19世紀の中頃には既にワクチンと並んでエクインが使われていて、予防接種法をワクチンと呼ぶことで、「ワクチン」と「エクイン」は、すべてワクチンと呼んで区別されることなく使われていたのかもしれません。

 

ここで、天然痘ワクチンに関する歴史を少し整理したいと思います。「科学史から消された女性たち(免疫学編)」にも書きましたが、天然痘を予防する人痘と呼ばれる方法は古くから知られていて、ジェンナーが天然痘ワクチンを開発する以前にも、インドや中国やアフリカで人痘法と呼ばれる予防接種が行われていました。そしてジェンナーが牛痘を使った天然痘ワクチンを開発する70年以上も前に、モンタギュー夫人と呼ばれる一人の女性がイギリスに人痘法を伝えています。また、モンタギュー夫人だけでなく、別の人たちによっても幾度か伝えられています。人痘法というのは、天然痘患者にできた膿を健康な人に接種することで、天然痘を予防するという予防接種法のことです。そのため人痘法をすることで天然痘そのものを発症することもあり危険だったといわれています。その証拠として、イギリスで1729年に897人に人痘をしたところ、17人が、人痘が原因で死亡したとの記録があります。つまり、天然痘による死亡率は30パーセントほどですが、その予防に使われた人痘でもおよそ1.9 %の人が亡くなったことになります。一方で、死亡率は300人に一人(0.3%)だったとする記録や、ドイツでは、460人で5人(1.5%)死亡したとする記録もあります。さらに、18世紀の中頃にデンマークで実施された人痘では、900人に接種されたが誰も死亡しなかった(0.1%未満)とする記録もあります。そのため、古くから人痘が実施されていた中国やインドやアフリカで、本当に人痘が安全でなかったは実はわかりません。実際に18世紀に書かれた文献では、インドで実施されていた人痘は1万人に接種しても誰も亡くならない書かれています。

 

そして驚くことに、牛痘に感染すると天然痘に感染しないことは、ジェンナー以前にヨーロッパ各地でも既に知られていました。実際に、牛痘を接種すると天然痘に感染しないことについて、ジェンナーは噂として聞いていたと紹介されることもあります。古い記録として、1765年にFewsterという名の医師がロンドン医学会に送った手紙では、牛痘に感染した人は人痘をしても(天然痘患者の膿を健康に人に接種しても)症状が出ないと書かれているそうです。そして、1774年にBenjamin Jestyという人物が、子供に牛痘を接種したという記録があります。ところが、そのことが論文として発表されたりして公になることはありませんでした。これ以外にも、6人の人たちが牛痘をジェンナー以前に予防接種に使ったとする記録も残っています。その中で、ピーター・プレットと呼ばれる人物は1790年から3回も、ドイツのキール大学(クリスティアン・アルブレヒト大学キール)の医学部に報告をしていたそうです。つまり、人痘だけでなく牛痘などの、動物の天然痘を人に接種する試みは民間療法としてジェンナー以前に実施されていたのです。

 

1798年の論文でジェンナーは、牛痘は馬のグリースからきた病気だと繰り返し主張したことが不自然なように思えるので、この点に私たちが知らない事情があるのかもしれません。なぜなら、その論文の中で、馬のグリースという病気の患部からとった膿を人に接種した場合には、牛痘を接種した場合とは異なる症状を示したことをジェンナー自身が記録しているからです。つまり、ジェンナーの説を否定する結果が出ているのにも関わらず、ジェンナーは自説を曲げなかった点です。これについては他の研究者も指摘しています。

 

ジェンナー以前に、すでに牛痘接種をしたことで天然痘を予防できることは知られていましたが、ジェンナーは自身の論文の中でその噂には詳しく触れていませんでした。そうすると、逆に、牛痘は馬痘が原因だとする噂をジェンナーは聞いていたけれども、そのことを論文の中ではあえて触れなかったのかもしれません。ジェンナーは、噂をもとに、馬痘と牛痘を実際にそれぞれ実験してみて、馬痘では様子が異なり、牛痘由来のウイルスを実験に用いた時にだけ効果があったので、牛痘を接種することで天然痘を予防できるとする論文を発表したのかもしれません。

 

公には認められていませんが、牛痘に限らず、人痘以外のものも東洋では既にワクチンに使われていたのではないかと思える記述もあります。1767年に、インドで実施されていた人痘の様子について、Holwellという人物が残した書簡に興味深い次のような記述があります。

- The cotton, which he preserves in a double calico rag, is saturated with matter from the inoculated pustules of the preceding year, for they never inoculate with fresh matter, nor with matter from the disease caught in natural way, however, distinct and mild the species. –

この文の冒頭の「The cotton」が人痘に使う物を染み込ませていた綿を指しています。そして、この文の最後で、「予防接種は、天然痘に感染した患者から得たものを使っていない」と受け取れるように書かれているのです。つまり人痘法と呼ばれていた時代に既に現在のワクチンのように、天然痘患者の膿とは異なるものが使われていたとも読み取れるます。この文が意味する内容については、これ以上は踏み込まれて記録されていません。ヨーロッパでジェンナー以前に既に牛痘が使われていたことを考えると、インドなどでも人痘ではなく馬痘や牛痘が使われていた可能性も拭えません。

 

また、1721年にイギリスに人痘法を伝えたメアリー・モンタギューは、トルコで実施されていた天然痘の予防接種法について次のように書いています。

- The small-pox, so fatal, and so general amongst us, is here entirely harmless by the invention of ingrafting, which is the term they give it -

このようにメアリー・モンタギューは当時のトルコで実施されていたのは人痘(variolation)とは表現せずに、ingrafting(植え継いでいるもの)と呼ばれていると記しています。そのことからも、ジェンナー以前にも人痘だけでなく、馬痘や牛痘が予防接種法として使われていたのかもしれません。ただし、ジェンナー以前に牛痘や馬痘が使われていた可能性については、記録が十分でないために公には認められていません。

 

 

牛痘以外にも、馬痘でも天然痘を予防できるとしても、どうして馬痘が使われるようになったのでしょうか?

 

ジェンナーが1798年に論文を発表し、牛痘を使った天然痘ワクチンが使われるようになったことで、天然痘による死亡者数は大きく減少しましたが、「牛痘は効果がない」との指摘も当時からありました。実際に、牛痘を接種した人たちが、後の天然痘の流行期に天然痘に感染した事例がいくつもあったのです。そしてジェンナーが開発したワクチンを接種しても、その後に天然痘に感染した事例も多く報告されました。これはワクチンの効果がないわけではなく、効果があっても時間とともにその効果が減少することや、あるいは正しく接種されていない場合もあったようです。そして、牛痘と似た症状をする異なる病気を牛痘と間違っていた場合もあったそうです。そのような批判が出てきた状況の中で、ジェンナーや、そして多くの他の人たちは、ワクチンについて再度検討していました。そしてその過程で牛痘を使うのではなく、馬痘のウイルスを手に入れて予防接種に使ってみたのかもしれません。

 

現在の私たちは、天然痘、天然痘ワクチン、牛痘、馬痘についてはそれぞれ別のウイルスが原因であることを知っています。ところが、19世紀と20世紀初頭の論文を読むと、天然痘と牛痘と馬痘は同じウイルスが原因の病気だと考えられていたようです。そのため、天然痘患者の膿を牛に接種することでワクチンを作ろうとする試みも繰り返されていました。当時は、牛痘や馬痘は天然痘が弱毒化したものと推測されていたので、逆に天然痘のウイルスを牛や馬に接種することで牛痘や馬痘になると考えていたようです。ジェンナーが牛痘がグリースという馬の病気に由来するとの記述が1798年の論文に記載されていたことから多くの人が検証しましたが、何人かが成功したとする記録がありますが、グリースは馬痘とは関係がないのではないかとする考えが既に19世紀にはあったようです。ジェンナー自身が馬痘をワクチンとして使う試みを繰り返したとの記録もあります。1813年にMelonという名の獣医から馬痘に由来するエクインを入手したとの記録があります。また、1817年に馬から取ったエクインをAllenという男性に接種し、接種後にできた水疱のリンパ液を、2〜3回ほど牛で植え継ぎ、Coleという男性へ接種し、さらにPowellという男性へと植え継ぎ、次に、RuderからMartinという二人の男性へと受け継ぎ、さらに一人の女性へと植え継ぐことができたと報告されています。つまり、牛痘に由来するワクチンだけでなく、馬痘に由来するエクインについての研究は、ジェンナー自身も続けていたのです。そして、エクインもワクチンも同じウイルスだと考えて区別していなかったので、天然痘ワクチンとして、多くの人が気づかないうちにエクインが使われるようになったのかもしれません。

 

1801年にフランスのHusson HMによって書かれた、ワクチンに関する歴史の本でも、なぜワクチンではなくエクインが使われるようになったかをうかがわせる記述があります。それは、やはり、「天然痘は馬のグリースという病気から来る」というジェンナーの主張に関した記述です。この本の中では、ジェンナーの論文に書かれている馬のグリースが牛痘の原因であることを示す実験はうまくいかないと報告されているが、何人かが、馬のグリースによって牛痘を引き起こすことに成功していると書かれています。偉大なジェンナー博士が間違いを犯すはずがないと信じて、馬のグリースに似た病気を使いなんとか牛痘を引き起こそうと試み、そして成功したと報告した人もいたのです。おそらく、たまたまグリースと同じ部位に馬痘の病気を発症していた馬からとった病変部位が牛痘を引き起こしたものと思われます。つまり、牛痘の予防効果が十分でない理由として、それは馬の病気からとっていないからだと考え、ジェンナーがいうように馬の病変部位からとって牛痘を引き起こすことができたもの(馬痘ウイルス)を真のワクチンだと呼んで使うようになったのかもしれません

 

マルフォード社のワクチンが製造された1902年と同じ年に発表された本でも、ジェンナーがエクインを使ったことはあるとの記載はありますが、天然痘のワクチンは牛痘由来でワクチンとして書かれています。つまり、初めに紹介した論文で調べられたマルフォード社がワクチンを製造していた時代でも、それはエクインではなく、牛痘に由来するワクチンと信じられていたようです。19世紀半ばのアメリカの南北戦争の時代に使われた天然痘ワクチンのサンプルについて発表された論文でも天然痘ワクチンはやはり馬痘のウイルスだったと報告されています。

 

科学では発見者は度々真の発見者ではないことが知られています。DNAが二重らせん構造であることの真の発見者はロザリンド・フランクリンと紹介されることもありますが、公にはワトソンとクリックによって発見されたとされています。そして、メアリー・モンタギューもヨーロッパに天然痘予防接種法を伝えたにも関わらず、その名前は歴史から消されています。科学において「発見者は真の発見者と異なることは多い」との言葉は、1801年にHussonによって書かれた「ワクチン研究の歴史」の本でも紹介されています。天然痘撲滅につながったワクチンの開発においては、私たちは「発見者」だけでなく、歴史に名前を残さなかった、多くの「真の発見者」たちにも敬意を示さないといけないのかもしれません。

 

2023118

2023年2月3日改訂

2023年4月22日改訂

2023年5月1日改訂

2023年11月18日改訂

 

参考文献

A concise history of small-pox and vaccination in Europe. London: H.K. Lewis, 1902 URL: https://wellcomecollection.org/works/ccdprc9v 

Journal of General Virology (2005) 86, 2969-2977

Equination (inoculation of horsepox): an early alternative to vaccination (inoculation of cowpox) and potential role of horsepox virus in the origin of the smallpox vaccine Vaccine 35 (2017) 7222-7230 

A handbook of vaccination. Edward C Seaton MD. London Macmillan and co. 1868

Lancet Infect Dis. 2018: 18: e55-63

Sudhoff Arch. 2006; 90 (2): 219-32 [Peter Plett and other discoverers of cowpox vaccination before Edward Jenner] - PubMed (nih.gov)

Henri Marie Husson "Reseachers historiqest et medicales sur la vaccine"