液性免疫と細胞性免疫

 

「液性免疫」と「細胞性免疫」という言葉を聞いたことがあるでしょうか? ジェンナー以前の免疫学で書いたように人は数千年前から一度感染した病気には二度と感染しない二度なし現象を知っていました。その二度なし現象を支えるものが私たちの体の中の細胞だとするのが細胞性免疫説で、血液などの液体成分が二度なし現象の原因となって支えているとするのが液性免疫説です。現在では私たちの体の中のマクロファージやT細胞が働き、それらに加えて血液中の抗体や補体なども重要な働きをするので、細胞性免疫と液性免疫の両方ともが大切だと知っています。しかし、19世紀の免疫学では細胞性免疫説と液性免疫説が激しく対立していたのです。 

 この液性免疫説はもともとは紀元前の古代ギリシア時代の医師で、医学の父とも言われるヒポクラテスにまで遡ります。このヒポクラテスは4体液説を唱えたことで知られています。この説では人の体内には血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4つの液体があり、そのバランスが崩れることで病気になると考えられていました。この紀元前に提唱された4体液説ですが実は19世紀の中頃まで広く受け入れられていました。液性免疫説を支持したのはドイツのロベルト・コッホが有名です。そして、このコッホとともに研究をしたのが日本人の北里柴三郎です。


 

 

  19世紀から20世紀にかけて、ロベルト・コッホ、北里柴三郎、エミール・フォン・ベーリングの3人が液性免疫の発見に大きく貢献しました。北里とベーリングはコッホの弟子で、この3人の中で、ベーリングが「ジフテリアに対する血清療法の研究」でノーベル賞を受賞しています。

 ジフテリアはジフテリア菌による感染症ですが、日本では1999年での死亡例を最後に殆ど観察されていません。ジフテリアに感染すると、数日の潜伏期間の後、発熱や嘔吐がはじまり、呼吸困難などを生じます。致死率は5〜10%といわれる怖い病気です。ベーリングは、日本では北里柴三郎のノーベル賞を奪った人物として紹介されることもありますが、海外では、血清療法の発見者としてベーリングの名前のみ記載され、北里柴三郎の名前が記載されていないこともあります。

 

 北里柴三郎は、熊本の阿蘇で生まれ、旧六医大の一つ熊本医科大学の前身となる、熊本医学校でオランダ人医師のマンスフェルトと出会い、医学の道に進むことを決意したと云われています。その後、東京医学校へと進学し、卒業後には、1885年に、日本の内務省からの留学生としてドイツに渡り、コッホに師事しました。ちなみに、熊本大学の医学部では、北里柴三郎にちなんだ「柴三郎プログラム」があり、医学の基礎研究者の育成に努めています。

 北里とベーリングは1890年に破傷風菌やジフテリア菌の培養液を滅菌したものを、少しずつ動物に投与すると、これらの細菌がつくる毒素を中和することができる抗毒素が血中にできること、さらに、この抗毒素を別の動物に投与すると病気を予防できることや、ジフテリアに感染している動物に投与することで治療効果があることを報告しました。北里との論文を発表した一週間後に、ベーリングは単独でジフテリアに対する免疫についての論文を発表しました。ベーリングはその後も、自らの研究成果の重要性を説いて回ることで、その一年後の1981年のクリスマスには、ベルリンの病院で、ジフテリア毒素に対する抗毒素を使った初めての治療が、一人の子どもに対して行われることとなりました。

 この素晴らしい発見は、当時の多くの研究者により追試され、それが正しいことが証明されました。この業績によりベーリングは、1895年にマールブルク大学の教授に就任しています。また、1898年に、ベーリングはウェルニットと共に、抗毒素により中和されたジフテリア毒素を動物に投与することで、動物に免疫をつけることができることを発見しました。これは、後に、毒素と抗毒素の複合体を使ってヒトへ免疫をつける方法、つまり新しいワクチン製造法へと発展していきました。血清療法に対する功績により、ベーリングは1901年にノーベル賞を受賞しています。一方で北里柴三郎は、1980年の発表の後に、ほどなく帰国しました。そのためノーベル賞を逃したのではないかと云われています。しかし、帰国した北里は日本の医学の発展に非常に大きな貢献をしました。

 

 北里とベーリングにより発見された血清療法は、免疫学の理解を飛躍的に向上させました。従来から知られる「2度なし現象」は血液の液体成分である血清中に抗毒素ができることで説明できるからです。このように、ヒポクラテスが2000年以上前に提唱した4体液説の流れをくむ液性免疫説はその実態となる抗毒素や抗体が発見されることで「液性免疫」説の正しさが受け入れられました。

  

ドイツの医学者の中では、免疫の二度なし現象を支えているのは液性免疫であるとする考えが主流となりつつありました。しかし、そのような時代の中で、「細胞性免疫」、つまり、血液中の細胞が免疫を担うと唱えたのがロシアの動物学者イリヤ・メチニコフです。メチニコフは当時のフランスのパスツール研究所で研究をしていました。一方で液性免疫説を指示していたコッホはドイツの医学者でした。この細胞性免疫説と液性免疫説の対立にはそのようなドイツとフランスの政治的な対立も一因としてあったと云われています。

 イリヤ・メチニコフは1845年にロシアのウクライナで生まれ、ロシアのオデッサ大学で1867年に教授に就任しています。彼は、多くの白血球には貪食作用が有り、侵入した微生物を貪食することで、感染から身をまもることを発見しました。これは、血中に存在する好中球による貪食を観察したものと思われます。このように白血球の細胞そのものも、免疫応答を担うことが明らかとなり、1908年にポール・エーリッヒと共にノーベル賞を受賞しています。この頃になって、「2度なし現象」は「液性免疫」と「細胞性免疫」により担われると考える人も現れてきました。しかし、この二つの免疫の違いが明確に認識されて、そのメカニズムが解明されるようになるまでには半世紀ほどかかっています。


 

 「液性免疫」と「細胞性免疫」の概念があることで、免疫学の研究もさらに進みました。「液性免疫」の抗毒素の研究から、抗体や補体などの発見と、その役割の解明へとつながっています。また、「細胞性免疫」からは、食細胞だけでなく、抗体産生細胞やT細胞の発見へとつながっていきました。つまり、数千年以上まえから知られる「二度なし現象」は、およそ100年前からようやくそのメカニズムの理解が始まったのです。

 

 ちなみに、この細胞性免疫の発見に貢献したメチニコフは、ヨーグルトの効能を唱えたことでも知られています。1882年にフランスでコレラが流行したときに、メチニコフは、フランスを訪れ、同僚とともにコレラ菌を飲む実験をしました。同僚の二人がコレラに感染したのに対し、メチニコフは一人、感染しませんでした。このことで、メチニコフは、腸内に住み着いている細菌叢が異なっているのではないかと考えました。つまり、メチニコフの腸内細菌がコレラ菌に勝ったのに対し、同僚の腸内細菌はコレラ菌にかてなかったのではないかと考えたのです。腸内細菌と食べ物との関係に興味をもったメチニコフは、ブルガリアヨーグルトの中の乳酸菌がブルガリア人の長寿の一端を担うと発表したグリゴロフと研究を進め、乳酸菌の働きを詳細に調べ、1907年に不老長寿論というエッセイを発表し、ブルガリアヨーグルトの素晴らしさを唱えました。