ジェンナー以前の免疫学

 免疫は二度なし現象ともいわれます。これは一度感染した病原体には二度と感染しない、もしくは、感染しても軽症ですむという意味です。ワクチンはこの二度なし現象を利用したものです。ジェンナーは天然痘という当時非常に恐れられていた感染症に対して、初めてこのワクチンを作ったことから免疫学の父と云われています。 

 イギリスのバークレーで開業医をしていたジェンナーは、乳搾りを仕事にしている女性達の間で、牛の天然痘(牛痘)に感染した人は、人の天然痘には罹らないという話があることに興味をもちました。牛痘はもともと牛の病気ですが、人にも感染することがあります。しかし、牛の病気なので、人に感染しても軽症で済みます。そこで、わざと牛痘を人に接種すれば、接種された人は天然痘に罹らないのではないかと考えました。

 1796年の5月14日に、牛の乳搾りのサラ・ネルムスの腕に出来た牛痘の病変部位から膿をとり、これを8才の男の子ジェームズ・フィリップスの腕に接種します。9日後にフィリップスは、寒気を感じ食欲が低下しますが、翌日にはもう回復していました。同じ年の7月に、今度は、天然痘患者の膿をフィリップスに接種しますが、天然痘の症状は全くでませんでした。これが、牛痘を用いた天然痘に対するワクチンが初めて開発された時でした。この方法は現在では種痘と呼ばれています。ちなみに、日本では以前は、ジェンナーは我が子を実験台としてつかったと云われていました。しかし、実際に初めて種痘を接種したのは、我が子ではなく、ジェンナー家で働いていた人の息子でした。フィリップスで成功するのを確認してから、ジェンナー家の次男のロバートを含む8人の子どもに対して種痘を接種したようです。

 このジェンナーによる種痘法の開発が、免疫学の始まりであると云われています。一方で古代ギリシアのヒポクラテスが医学の父と呼ばれるように、「医学の歴史は数千年に亘るが、免疫学には数百年の歴史しかない」と云われることもあります。しかし、免疫学の歴史は実はもっと古く、古代から人は免疫という現象を知っていました。

 

 一度感染した病気に二度とかからない、或いはかかっても症状が軽くなるという「二度なし現象」は、ジェンナーが生まれる遙か昔から知られています。2000年ほど以前に古代ギリシアで書かれたファルサリア(内乱)という叙事詩には、ヘビ毒に対する抵抗性の獲得についての記載があり、「免疫」の語源となった「immunes」というラテン語で表現されています。また、年代が特定できる最も古い「二度なし現象」の記載は、古代ギリシアの歴史家のトゥキュディディスの「戦記」と言われています。

 この「戦記」には、古代ギリシアの植民都市であるシラクサと、当時、地中海貿易で繁栄していたカルタゴとの戦いの中で、まさにこの「二度なし現象」が、シラクサをカルタゴ軍から救ったと書かれています。

 フェニキア人によって建国されたカルタゴは、現在のチュニジア共和国の首都であるチェニス近郊のチェニス湖東岸にあった古代都市国家です。紀元前5世紀には、地中海交易で栄えていましたが、地中海に進出してきた古代ギリシア人との間で、交易権を巡って争いが続いていました。

 紀元前5世紀頃に、カルタゴが、シチリア島の南東部に位置した古代ギリシア人の植民都市の一つであるシラクサに攻め込みましたが、ペストが流行したため、カルタゴの軍は戦争ができなくなりました。その8年後に、カルタゴは再びシラクサを攻めました。この時のカルタゴの軍は、8年前とは異なり新たに屈強な人を集め万全の体制で戦争に臨んでいました。一方で、シラクサ軍は、8年前の戦争でペストに感染した生き残りの老兵ばかりで構成されていたために、カルタゴ軍が必勝の布陣でした。しかし、この戦いでも再びペストが広がりました。この2度目の戦いで、カルタゴ軍の多くの兵士がペストに苦しむなか、シラクサの兵士は、一度ペストに感染しているために、2度目の感染を免れ、戦いに勝ったことが記載されています。

 

 この「二度なし現象」の記載は、古代ギリシアだけではありません。天然痘や病気をつかさどるインドの女神としてマリーアンマンが知られています。これは、神話が書かれた時代に既にインドでは天然痘があったことを意味しています。天然痘の起源はよくわかっていませんが、およそ紀元前10世紀頃のインドではないかと言われています。そして、紀元前に書かれた古代インドの聖典であるアーユルヴェーダには、現代では人痘として知られる天然痘の予防ワクチンの方法が書かれています。その方法は次のように紹介されています。

 バラモン達はまず、男性には手首から肘にかけて、女性には肘から肩にかけて接種場所を決めます。そして布を使って接種する場所を数分間、丁寧にこすります。その後に、針で撫でるように優しく傷をつけて僅かに血が出るようにします。そうするとバラモン達はリネンの二重布に包まれた一本の糸を取り出します。この糸は前年に天然痘患者の傷口の膿をつけ、その後乾燥させたものです。バラモン達は取り出した糸に数滴、ガンジス川の水を垂らして湿らせると、先ほどの血が出ている接種部位につけ、包帯で糸と接種部位を6時間固定します。6時間後に包帯を取って糸が自然に落ちると、天然痘に対する予防ができる。

 この方法は、現在で言うところの不活化ワクチンと同じ方法になります。1年間天然痘患者の膿を乾燥させることでウイルスを不活性化し安全にした後に、患者に接種するというのは非常に理に適っているのです。一方のジェンナーが開発したワクチンは現代で言うところの生ワクチンに相当します。

 インドで古くから伝わる方法は中国でも1000年ほど前から行われていました。中国では11世紀頃に、天然痘患者の瘡蓋を綿でつつみ、粉にしたものを健常人の鼻に入れ、天然痘に対する抵抗性を付けさせたと云われています。この様な、天然痘感染患者の膿や瘡蓋を使用する方法は「人痘」と呼ばれます。1744年に中国から来日した李仁山が長崎で人痘を実施し日本に伝わっています。ジェンナーが種痘の実験を始めたのは半世紀も後のことです。

 

 ジェンナーは、このような古くから知られていた「二度なし現象」を知らなかったのでしょうか? 実は、ジェンナーはこの「二度なし現象」を以前から知っていました。それどころか、天然痘患者の膿や瘡蓋を用いた「人痘」を、子どもの頃に受けていたと云われています。このジェンナーも子どもの頃に接収した「人痘」を、イギリスに伝えたのがモンタギュー夫人として知られるメアリー・ウォートリー・モンタギューと呼ばれる一人の女性です。モンタギューは非常に裕福な家庭に生まれ、当時の女性は教育を受ける機会がほとんどありませんでしたが父に頼み教育を受けさせてもらうことができました。そして、モンタギューはその美貌と文才で、当時のロンドン社交界のアイドル的な存在だったそうです。しかし、トルコのイギリス大使と結婚し、その夫とともに、トルコに滞在していたい時に、モンタギューは天然痘に感染し、その美貌を失ってしまいました。悲しみの中でモンタギューは、同じような苦しみを他の人が二度と受けないように、当時トルコで知られていた「人痘」を、ジェンナーが生まれる20年ほど前に、トルコからイギリスに伝えました。モンタギューは1721年に医師に頼み、娘に人痘を接種させました。その翌年の1722年には、イギリス国王ジョージ一世の孫娘に人痘が接種されました。その後もモンタギューの熱心な努力により、「人痘」がイギリスの医師の間では広く行われるようになっていました。

 

 この人痘はオスマントルコからイギリスにもたらされましたが、元々は1660年にギリシアからオスマントルコに来た一人の女性が伝えたという記録が残っています。しかし、その女性の名前は残っていません。人痘の方法はおそらく古代のインドで始まり、それが広く世界各地に伝えられ民間療法として細々と伝わっていたようです。実際に、モンタギューが人痘をイギリスに持ち帰った翌年の1722年に、イギリスのハーバーフォードウェストに住む90歳の老人が子供の頃に人痘を受けていたとの証言が記録されています。そして、その老人の話では母親も人痘を受けていて、母親が我が子に人痘を受けさせるようにしたそうです。このように、天然痘のワクチンの普及は、実は、歴史に名前が挙がることがない女性達によって長く伝えられ、そして多くの子ども達の命を救ってきたようです。

 

 18世紀の初頭には、アメリカでも人痘接種の試みがありました。1721年に天然痘患者を乗せた船がアメリカに入港したために、アメリカでも天然痘が流行しました。医者のサブティカル・ボイルストンは6才の息子などに人痘の接種を開始し、人痘を接種することでボストンでの天然痘による死亡率を14%から3%程度へと減少させることに成功しています。

 

 ジェンナーは1796年に、8才の男の子を実験台として種痘法を確立しましたが、このような実験は現在では許されません。しかし、当時のイギリスの平均寿命は40才程度で、多くの人が感染症で亡くなった時代でした。日本も、世界的にみても天然痘が非常に蔓延していた国で、1857年に来日したポンペ・ファン・メンデルフォールトは、当時の日本人の3人に一人は顔に天然痘に罹ったあとの痘瘡があると記載しています。そのため、昔は、「疱瘡すむまで我が子と思うな」と言われていました。ジェンナーが種痘法を確立した頃は、天然痘などの感染症で亡くなることが多かった時代です。ですので、ジェンナーが実施した種痘の接種に参加することは、現代でいうところの、がんの重粒子線治療や免疫療法のような、最新の治療法による治験に参加するのと同様に、当時の最新の治療を受けられるという意義があったのかもしれません。

 

 ジェンナーが開発した「種痘」と、それ以前に知られていた「人痘」は、何れも同じ「二度なし現象」を利用したものです。これまで「種痘」と「人痘」には大きな違いがあって、「人痘」では、天然痘患者の膿を使うために「人痘」をしたことで天然痘に感染し死亡することもあり危険なのに対して、「種痘」では、牛痘という重症化しない病気の膿を使うことから天然痘に感染する恐れがなく安全だったと説明されてきました。ところが、インドで実施されていた人痘は非常に安全に接種されていたことから、実はモンタギューがイギリスに伝えた人痘も非常に安全だったようです。種痘は膿を次から次へと接種して行くことができるのに対して、人痘は前年の患者の膿を使わなくてはいけない不便さがあります。おそらく、その利便性のために種痘が人痘に置き換わったものと思われます。

 

 「種痘」は、1805年に、広東のイギリス商館医により中国に伝わり、その2年前の1803年に、長崎の出島でオランダ商館長のズーフから日本に情報が伝わりました。また、1823年に来日したシーボルトは、人痘を実施ましたが失敗に終わり、その後、1848年に来日したモーニケが実施した種痘が上手く効果が現れ、日本に広まることとなりました。

 

 ジェンナーを免疫学の祖として世に知らしめたのは、実は、ルイ・パスツールと云われています。パスツールは、ニワトリコレラのワクチンや、狂犬病のワクチンを初めて開発したことでも知られています。パスツールは、このような、感染症に対するワクチンを初めて作った人がジェンナーだといいました。そして、病原体に対する「ワクチン」を最初に開発したジェンナーの業績に経緯を表して、予防接種をVaccinationと名付けました。これは、ラテン語で雌牛のことをVaccaというためです。

 

20191217日改定